Napoleon SchwanによるPixabayからの画像
2026年のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)は、日本においてNetflixが独占配信を担う大会となった1。そしてこの変化は単なる放映権の移動ではなく、日本社会が長年依存してきたテレビ中心のメディア構造が、静かに転換点を迎えたことも示しているのかもしれない。
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記事のポイント
- 2026年WBCのNetflix独占配信に象徴されるように、日本のメディア構造はテレビ中心の「プッシュ型」から個人が能動的に選択する「プル型」へと転換しつつある。
- この変化は1940年体制に根ざした中央集権的な情報支配の終焉を示し、アジェンダセッティング権がメディアから市民へと移行しつつあることを示している。
- 消極的自由から積極的自由へ——この移行を制度的に支えることが、日本の民主主義の持続可能性を左右する。
Summary
Postwar Japanese media and information structures have relied on a “push-type” model in which television and newspapers unilaterally set the agenda. Underlying this was the state-led social system that Yukio Noguchi termed the “1940 System,” a structure in which information providers defined the audience had permeated society as a whole.
However, as symbolized by Netflix’s exclusive streaming rights for the 2026 World Baseball Classic, people now choose for themselves what to watch and when. The advent of touch-based interfaces, epitomized by the iPhone, has provided the technological foundation for this shift, ushering in an era in which individuals actively connect to information.
Translated with DeepL.com (free version)

テレビはかつて、「同じ瞬間を共有する」ための装置だった。オリンピックもWBCも、茶の間に集まった家族が同じ画面を囲んで盛り上がる——そういう体験を支えるインフラだった。しかしスマートフォンの普及と配信サービスの拡大が、その構造を根本から変えてしまった。
ビジネスの構造も同様に変わりつつある。従来、スポーツ放映権はテレビ局がスポンサー収入をもとに購入するモデルだった。しかし今や、Netflixのようなグローバル配信事業者が「加入者獲得のための資産」としてスポーツコンテンツを高額で取得しようとしている。
人々はもう、同じ「媒体」としてのテレビを共有しない。しかし同じスポーツという「出来事」には、それぞれの画面から接続する。共有体験が消えたのではなく、その形が変わったのだ。
ただしこの変化には、見落とせない側面がある。テレビや新聞という「中央集権的な情報発信」が後退することは、社会が同じ文脈を共有する機会の減少を意味する。人々がバラバラの画面でバラバラのコンテンツを消費するとき、かつてのような「社会全体の同時体験」は、もはや生まれにくくなっているのかもしれない。
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iPhoneが変えたのは「選ぶ自由」から「問う自由」だった
人間と情報との関係については、いかなるインターフェースで媒介されるかによって規定される2。情報社会において問われるべきは、コンテンツの量だけではない。
人間がいかに情報へアクセスし、操作し、そこから意味を紡ぎ出すか——その構造こそが本質的な意味を持つ3。その観点から見たとき、近年における歴史的な転換点はiPhone以前と以後に分けることができる。
iPhone以前の物理ボタン中心のインターフェースは、ユーザーの行動範囲を設計段階から限定する構造を内包していた。ボタンとは本来、一つの入力に一つの機能を対応させる装置であり、可能な操作はデバイスが完成した瞬間に固定される4。テレビのリモコンは、その典型である。
リモコンのボタンの数(チャンネル数)だけ選択肢があるように見えて、その先に広がるもの——情報の形・深さ・文脈——は、すべてテレビ局側が決定していた。視聴者にできることは、「放送局が編成したコンテンツの中からどれを選ぶか」に過ぎない。選択肢がいかに増えようとも、その構造は変わらない。
ここに物理ボタン式インターフェースの本質がある。視聴者はチャンネルを「選ぶ自由」を与えられていたが、「問いを立てる自由」は持ち得なかった。つまり何を重要とみなし、どの文脈でそれを語るかを決定する力——すなわち「アジェンダセッティング」——については、日本ではとくにテレビ局や新聞社といった大規模メディアが独占していたのである5。

