Herbert BieserによるPixabayからの画像
中国の江沢民元国家主席が30日、白血病と多臓器不全のため、上海市で死去した。国営新華社通信が伝える。
江沢民氏は、軍が民主化運動を武力弾圧した1989年の6月の天安門事件直後、当時の最高指導者である鄧小平氏の抜擢により、上海市のトップから共産党総書記に就任。
鄧氏が敷いてきた改革開放路線を軌道に乗せる一方、愛国主義教育を推進して、日中関係の悪化を招いたとされる。
他方、日本においても旧統一教会との密接なつながりを持つ安倍晋三首相(第一次政権)の下、愛国心教育が推進された。
江沢民氏は要職を退いたのちも政治への介入を続けたが、しかし習近平指導部による「反腐敗」運動により、近年は影響力が低下1。
10月に行われた中国共産党大会では、議事の運営を取り仕切る「主席団常務委員会」に名前があったが、会場にはその姿はない1。公式に姿を見せたのは、2019年10月の建国70周年記念式典が最後1。
上海時代の部下を要職に登用し、「上海閥」を形成。2002年に総書記を退任し、胡錦涛前国家主席に実権を移譲したあとも、上海閥を通じ、長老政治を続けた1。
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経歴 香港返還、北京夏季オリンピック招致、WTO加盟 習近平氏を後押し
江沢民氏は江蘇省の出身。1947年に上海交通大学を卒業。電子工業相などを経て、1985年に上海市長、87年に上海市党委員会書記に就任1。
89年6月、天安門事件直後に失脚した趙紫陽氏の後任として、当時の最高実力者であった鄧小平氏に抜擢され、党のトップである総書記に就任。93年3月から2003年3月まで、中国の国家元首にあたる国家主席も務めた。
97年に鄧氏が亡くなった以降には名実ともに最高指導者となり、鄧が主導した改革・開放路線をさらに推進。2000年には、労働者、農民だけでなく私営企業家の共産党への入党に道を開く、「三つの代表」という思想を提唱1。
02年の党大会において、党の重要指導思想の一つに位置付ける。他方、言論の自由や民主化に向けた改革には消極的あった。
1998年には中国の国家元首として初めて”国賓”待遇で訪日。アメリカのクリントン元大統領らとも関係を深め、米中関係の強化も図った。
97年には、イギリスからの香港返還を実現。2001年7月には08年北京夏季五輪の招致に成功。01年12月には、WTO(世界貿易機関)への加盟を果たす。
2012年11月には、上海閥と良好な関係のあった習近平総書記を中心とする最高指導部の誕生を後押したとされる1 。
しかし、上海閥の幹部が続々と習氏の看板政策である「反腐敗運動」の標的となり、急激に影響力を失った。
中国 「国家主席」と「総書記」
国家主席とは、中国の最高指導者であり、国家元首の職名。総書記とは、中国共産党の最高指導者の職名を指す。
国家主席は、他国でいう大統領にちかいもの。ただし、政治的に強い権力があるというものでもなく、儀礼的かつ象徴的な象徴。ただ、対外的には、国家主席が元首として扱われる。
対して、総書記とは中国共産党の職名。あくまで、「中国共産党」という党のトップであるが、中国は党の指導により政府が政治を行う。
そのため、権力や影響力のいう点においては総書記が国のトップである国家主席を兼ねることが多い。
国家主席も総書記も、いずれも社会主義国でよく用いられる職名だ。
1950年代には、毛沢東が党の主席と国家主席とも兼ねていたが、1959年に大躍進(第2次5カ年計画の初年度に行われた政策)の失敗の責任をとり、国家主席を劉少奇に譲った。
1970年代の初めは、文化大革命で劉少奇が失脚して以降、空席であったもののその地位につこうとした林彪が国家主席の設置を提案したが、毛沢東は拒否し、実現しなかった2。
1983年、鄧小平が政治機構の改革に着手し、結果、国家主席の座が復活しかし、自身はその職にはつかず、名誉職的色彩の強い役割にとどめ、李先念が就任。
以後、1988年に楊尚昆、1993年に江沢民、2003年に胡錦濤が就任した。
「長老政治」に幕 習”1強”体制 さらに強固
江沢民氏の死去は、「長老政治」の終わりを意味する。習近平氏は”終身支配”を目指しているともいわれ、10月の党大会で異例の3期目への続投を決めたばかりであり、1強体制がさらに強固に。
江氏が総書記に抜擢されたのは、天安門事件が起きた1989年6月。江氏は上海市の党委員会書記で、民主化運動への弾圧に直接関わっていない指導者として、白羽の矢が立った1。
ただ、中央での経験は乏しく、鄧小平ら長老が君臨する中、内外からは「暫定政権」とみられていた。
しかし、江氏は鄧らの顔をうかがいながらも、しかし粘り強く権力闘争を勝ち抜いていく。
鄧氏の死去後、江氏は実験を確立。党の総書記と国家元首である国家主席、さらに軍のトップである中央軍事委員会の主席の三役を1人で同時に務めたのは、江沢民氏は初めてだった1。
2012年に誕生した習近平指導部の7人の大半は、江氏と近かった。ただ、自らが”引き上げた”習氏の反腐敗運動により、結局、失脚。
毛沢東による個人独裁の反省のもと、敷かれた集団指導体制を習氏が終わらせることになり、一時代を築いた「上海閥」が江沢民氏の死により事実上、消滅したことで、中国政治の「ひとつの終わり」を迎えることになった。