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サッカー元ブラジル代表で、「王様」と呼ばれたペレさんが12月29日、大腸がんの進行などよる多臓器不全のため、ブラジル・サンパウロの病院で死去した。82歳。本名、エドソン・アランテス・ド・ナシメントさん。
サッカーW杯で、史上ただ1人の3度の優勝を経験し、サッカー史上最高の選手といわれる。昨年9月に大腸の腫瘍を取り除く手術を受けて以降、入退院を繰り返し、昨年11月29日に再び入院。
ペレさんのひつぎは1月2日、サンパウロ州のサントスに本拠地を置く古巣のクラブ、サントスのホームスタジジアムに運ばれ、午前10時から24時間、市民の弔問を受け入れた。
ペレさんは現役時代、身長175センチながら、高い身体能力を武器に、シュート、ドリブル、パスのそのすべてが一級品で、FIFA(国際サッカー連盟)が選定した20世紀最優秀選手に輝く。
W杯では、17歳のときに出場した1958年大会で、今もつづく最年少得点を含めた6ゴールを記録、ブラジルの初優勝に貢献。
つづく62年大会では、負傷により2試合の出場にとどまるも、2連覇。70年大会も優勝し、3度目の頂点に。
4大会、14試合で12得点を記録し、ブラジル代表では歴代1位の通算77ゴールを記録。異説もあるが、生涯成績1363試合で1281得点という記録を持つ1。
経歴 弱冠21歳で「王様」の称号を獲得
1940年、ブラジル南東部ミナスジェライス州トレスコラソンエス生まれ。15歳で入団したサントスでは、長年にわたりエースとして活躍。1962年と63年にクラブ世界一に導く。
75年から北米リーグのニューヨーク・コスモスでプレー。77年に現役を引退。
1958年のW杯スウェーデン大会にブラジル代表として初登場。準々決勝のウェールズ戦で初ゴール。17歳239日でW杯最年少得点記録となった。その5日後の準決勝のフランス戦では、最年少でハットトリック。
その5日後には、決勝に最年少出場し、2得点。いずれも、今でも破られていない記録だ。
「王様」と呼ばれ始めたのは、21歳のとき。62年にサントスを初の南米王者に導き、10月に世界クラブカップ(現在のクラブW杯)で欧州王者のベンフィカ(ポルトガル)と敵地で対戦。
3得点2アシストの活躍で、5-2と圧勝し初優勝を飾ると、リスボンの7万5000人の観客が「オ・レイ」(王様)と連呼した。
引退後は指導者とならず、サッカーの枠を超えたスポーツ界の象徴的存在として活動。ユニセフ(国連児童基金)など、世界各地で社会貢献活動に従事、95~98年にはブラジルのスポーツ相を務める。
2011年には、東日本大震災の被災地である宮崎県名取市の小学校を訪問。子どもたちと交流し、サッカーボールを寄贈した。
現代サッカーの”フォーマット”を作る 背番号「10」番 サッカーの交代枠導入のきっかけ
ペレさんが残した形跡はプレーだけではなかった。現代サッカーにおける数々の“フォーマット“を形作った1人といっても過言ではない。
背番号「10」番を特別な番号としたのは、ペレさんだった。当時は、まだ無作為に割り振れられていた背番号であったが、ペレさんは当時、17歳で初出場した1958年のW杯スウェーデン大会で、プラジルを初優勝に導く。
その圧倒的な存在感に世界中の注目が「10」に集まり、その番号がその後、エースナンバーとして定着した2。
ルールにも大きな影響を与えた。66年のイングランド大会で、執拗なマークに遭い、負傷。1次リーグ最終戦のポルトガル戦はなんとか出場したものの、しかし再び、膝に相手のラフプレーを浴びた。
結果、ブラジルは実質10人での戦いとなり、3連覇への夢が絶たれることに。このことが、それまで認められてことなかったサッカーへの選手交代が導入される契機に3。
引退後は、CMにも多数出演した。95年にブラジルのスポーツ相に任命されて取り組んだのは、クラブに拘束されてきた選手の契約や移籍、クラブ経営など近代化で、一連の法律は「ペレ法」と呼ばれる4。
追悼の言葉あふれる
ペレさんの死去を受け、母国であるブラジルのサッカー界では死を悼む声が溢れた。
ペレさんが長年にわたりプレーしてきたクラブであるサントスのOBであるとともに、代表の背番号「10」を受け継いだ存在でもあるネイマール選手は、
「ペレが登場する前、サッカーはただのスポーツだった。彼はサッカーを芸術、エンターテインメントに変えた。彼が去っても彼の魔法は残る。ペレよ永遠に!」
5
と自身のInstagramに綴る。
ブラジルが最後にW杯を制したのは2002年の日韓大会のとき。その代表の主力FWであったロナウドさんは、
「唯一無二で史上最高のサッカーの王様は旅立った」
6
と追悼。
ブラジルにゆかりがある選手だけでなく、世界中のサッカー選手がその死を悼む。ペレさんはW杯カタール大会の期間中の11月末に入院。
しかし、優勝したアルゼンチン代表に病床からInstagramで祝福のメッセージを送っていた7。
アルゼンチン代表のメッシは、
「安らかにお眠りください」
8
と悼む。他、ポルトガル代表のロナウドは、
「何百万もの人々にインスピレーションを与え、今日も参考にされている」
9
と功績をたたえ、あるいはフランス代表のエムバペは、
「彼の残したレガシーは決して忘れることはない」
10
とした。