ナゴルノカラバフ紛争、終結 「ナゴルノカラバフ」とは? 100年にも及ぶ紛争 ロシアの影響力低下も

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Adam LapuníkによるPixabayからの画像

 アゼルバイジャンからの独立を主張してきたアルメニア系住民の行政府である「ナゴルノカラバフ共和国」は28日、

「共和国の全ての行政機関を解散し、来年1月1日までに存在を停止する」

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との「大統領令」を発表。これにより、アゼルバイジャンが現地を支配下に置くことが確実となり、ソ連時代末期から続く領土紛争は終結に向かう。

 ナゴルノカラバフは今月19日~20日にアゼルバイジャンより全面的な攻撃を受け、武装解除を条件に停戦に応じていた。一方、現地住民約12万人のうち、28日までに半数を超える7万人以上が保護を求めアルメニア国内に移動している。

 ナゴルノカラバフを支援してきたアルメニアのパシニャン首相は、今回の紛争から距離を置いたロシアの対応に強い不満を示しており、事態を経て旧ソ連地域でのロシアの一層の威信低下が免れない。

 シャフラマニャン「共和国大統領」の名で出された政令は、現地に戻るかどうかは個人の判断で決めるよう、住民に呼びかけた。また、タス通信によるとパシニャン氏は28日、

「近日中にナゴルノカラバフからアルメニア系住民はいなくなる。民族浄化、国外追放そのものだ」

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と述べ、アゼルバイジャンや現地に平和維持部隊を派遣するロシアを暗に批判。

  他方、アゼルバイジャン治安当局は28日、2022年11月から今年2月までナゴルノカラバフ行政府で首相に当たる国務相を務めたロシアの投資家ルベン・ワルダニャン氏を「テロ支援」の罪で起訴したと発表。

 ワルダニャンは27日、アルメニアに入国しようとして国境で拘束されている。ナゴルノカラバフで「外相」を務めたババヤン「大統領顧問」は28日、アゼルバイジャン側に投降する意向を表明。

 これにより、現地の行政府の崩壊が決まった。

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ナゴルノカラバフとは

 ナゴルノカラバフがある地域は、黒海とカスピ海に挟まれた「コーカサス」と呼ばれる地域。山岳地帯であり、もともと多様な民族が暮らしている場所だ。

 この場所は、歴史的にロシア、トルコ、イランなどの大国に囲まれ、国境線が絶えず入れ替わってきた。

 そのうち、ナゴルノカラバフはアルメニア共和国があるアルメニア高原の東端に位置し、標高は1000~2000メートルの高地だ。

 ナゴルノカラバフは、国際的にはアゼルバイジャンの領土として認められている。

 しかし1991年から30年近くにわたり、アゼルバイジャンの支配圏は及んでおらず、「ナゴルノカラバフ共和国」を称するアルメニア人勢力が実効支配していた。

 しかし、ナゴルノカラバフ共和国を承認している国家は存在していなかった。旧ナゴルノカラバフ自治州の面積は4400平方キロメートルで、日本の山梨県と同じくらい。

 山がちな地域のため、面積のわりには人口は少なく、推定15万人程度とみられる3

 「アルメニアを知るための65章」4によるとと、ナゴルノカラバフという地名は、もともとペルシャ語で森林に富む高地は「バフ・イ・シアフ(黒い庭園)」と呼ばれており、これがトルコ語で「カラ・バフ」となった。

 これが、ロシア語で「山岳の」を意味する「ナゴルノ」をつけて「ナゴルノカラバフ」となり、国際的に使われるようになったという。

 つまり、この地域がイラン、トルコ、ロシアという大国の間で領有権が入れ替わってきた歴史を示している。

100年にも及ぶ紛争、終結

 ナゴルノカラバフをめぐる問題は、100年以上前から続く。もともと、この付近にはキリスト教徒で印欧語族であるアルメニア人と、イスラム教徒でトルコ系のアゼルバイジャン人が暮らしていた。

 当初は、イラン領であったが、1828年にロシア帝国が占領する。

 帰属についての問題が起き始めたのは20世紀に入ってのこと。

 1905年にロシア第一革命を機にロシア帝国全土で反帝政運動が高まると、アルメニア人とアゼルバイジャン人との間で大きな衝突が起きる。対立はそのときから始まった。

 1917年のロシア革命でロシア帝国は解体し、翌1918年にアルメニア、ジョージア(グルジア)、アゼルバイジャンは、いったんは独立する。

 しかし国境を決める際、アルメニアとアゼルバイジャンとの間でこの地域の領有が問題となり、結果、領土紛争が100年以上続くこととなった。

 ソ連の時代に入ると、ナゴルノカラバフは「アゼルバイジャン内のアルメニア人の自治州」として定着する。しかし1960年代に、これを疑問視する声がアルメニア側から出てきた。

 ソ連末期にはゴルバチョフ共産党書記長によるペレストロイカ(改革)が始まる。

 1988年に、ナゴルノカラバフ自治州議会が、アゼルバイジャンからアルメニアへの「帰属替え」の請願をソビエト連邦政府に行う決議をするもゴルバチョフ氏はほかの民族問題に影響するとしてこれを拒否、アゼルバイジャン政府も反対したのを機にまた対立が激化。

 そしてアルメニア人の民兵組織がナゴルノカラバフに入り、ソ連の治安機関との衝突が起きる。

 1991年末のソ連崩壊で治安機関が撤退すると、1992年初めにナゴルノカラバフのアルメニア系政府が独立を宣言し、アゼルバイジャンとの全面戦争となった。

 1994年まで続いた最初の戦争では、アルメニアが支援するナゴルノカラバフ側が、アゼルバイジャンの領土だったアルメニアとの国境地域まで占領した。

ロシアの影響力低下


 戦争終結から20年以上たった2016年4月、今度は4日間の軍事衝突が起き、アゼルバイジャン軍が一部地域を取り返す。

 アゼルバイジャンは石油や天然ガスの生産で得た収入で軍備を増強し、支援国トルコと関係を強め、奪還のチャンスをうかがっていたとみられる。

 2020年に再び戦争となった。2度目の戦争は、アルメニア側が占領地ばかりか旧ナゴルノカラバフ自治州の領土を大幅に失う結果となる。

 2018年の革命で政権についたジャーナリスト出身のパシニャン氏が自国の軍部を信用できなかったことに加え、新型コロナウイルス禍の戦争で、罹患率の高いアルメニアに外国の支援が届きにくい状況もあった。

 一方のアゼルバイジャンは北大西洋条約機構(NATO)加盟国トルコだけでなく、イスラエルからも軍事支援を得て、ドローン(無人機)などを活用した戦術でアルメニア側を圧倒する。

 今回の衝突により、「ナゴルノカラバフ共和国」が年内での解散を表明したことで、旧ソ連圏で長年にわたり続いてきた領土紛争は、アゼルバイジャン側の「完全勝利」で決着をみる形となった。

 しかしながら、住み慣れた土地を捨ててアルメニアに逃れるとみられる12万人もの住民がいるというのも事実だ。

 また、紛争の最終的な解決を目指すアルメニアのパシニャン首相が野党からの批判を受けるなど、今後の政権の見通しも不透明。

 ロシアの対応に不満を抱くパシニャン氏が欧米への接近を強めるともみられ、ウクライナ侵攻により旧ソ連圏での求心力が低下したロシアにとってはさらなる打撃ともなる。

  ロシアとしては、ウクライナ侵攻に手いっぱいで、今回の紛争において介入を控えたことで、ロシアは最大の同盟国であったアルメニアまでもがアメリカとの軍事演習実施など、NATO(北大西洋条約機構)よりの姿勢を見せるなど、ロシアの威信の低下を招いた。

  1. モスクワ=共同「ナゴルノカラバフ決着へ」西日本新聞、2023年9月29日付朝刊、5項
  2. 共同、2023年9月29日
  3. 安藤健二「ナゴルノ・カラバフとは? 紛争の理由が分かる5つのポイント」HUFFPOST、2020年10月6日、https://www.huffingtonpost.jp/entry/nagorno-karabakh_jp_5f7c071ec5b61229a05642fe
  4. 中島偉晴・メラニア・バグダサリヤン[編著] 「アルメニアを知るための65章」明石書店、2009年
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