関東大震災から100年 被害の概要 朝鮮人虐殺 福田村事件

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M WによるPixabayからの画像

 約10万5000人の死者・行方不明者を出した関東大震災が発生してから、1日で100年を迎えた。「防災の日」を迎えたこの日、政府は首相官邸で首都直下地震を想定した総合防災訓練を実施。

 また、各地では訓練だけでなく、震災による犠牲者を悼む法要や、虐殺された朝鮮人らの追悼式も行われる。この100年で建物の耐震性などハード面の整備は進んだものの、木造住宅の密集地域は依然として残っている。

 さらに高層マンションの増加や住民の高齢化も進み、次なる巨大地震を想定したうえでも課題は山積みだ。

 10万人超の犠牲を出した教訓から、建物の耐震化や不燃化は進んだが、しかし東京への一極集中が進み、あるいは高齢化や高層ビルの増加などが新たなリスクとして顕在化。

 しかしながら、災害時の行政の支援には限界があることも事実であり、専門家は一人一人の備えの重要性を強調する。

 関東大震災では、地震発生後、火災が猛威を振るった。初期消化を行なった住民もいたものの、約10万5000人に上る死者・行方不明者のうち9割が、火災が原因だという1

 また土砂災害も含めて、37万棟以上の住宅が全半壊した。

 この教訓を踏まえ、政府は1924年、世界で初めてとなる耐震規定を制定する2。以後も基準の見直しを経て、2018年の耐震化率は全国で87%まで上昇し、建物の不燃化も進んだ。

 一方で、この100年間で進んだ人口集中が、防災上の新たな課題となっている。2020年の東京圏(東京、千葉、埼玉、神奈川)の人口は約3691万人で、これは関東大震災当時の約5倍にまで達した。

 総人口に占める割合も、13.7%から29.3%にまで上昇する。急速に進む高齢化も、災害発生時の大きな問題だ。

 総人口に占める65歳以上の割合(高齢化率)は、東京圏でも4人に1人。単身者も多く占め、地震により医療や介護のサービスが維持できなければ、避難生活による持病の悪化で亡くなる「災害関連死」が爆発的に増えかねない。

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被害の概要

 関東大震災は、1923(大正12)年9月1日の午前11時58分に発生した。

被害の概要(内閣府資料より)
・発生日時
1923(大正12)年9月1日午前11時58分

・地震の規模
マグニチュード7.9

・死者、行方不明者
10万5000人超

・住宅全壊
10万9000棟余

・焼失建物
21万2000棟余

 地震の規模は、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災を引き起こした大地震(マグニチュード7.3)と比べても8倍ほど大きかったという3

 首都圏を中心に激しい揺れが襲い、当時の震度階級で東京・神奈川県・千葉県・埼玉県・山梨県で震度6(現在の震度6弱から震度7に相当)を記録。北海道から四国のかけての広い範囲でも震度5から1の揺れが観測された。

 内閣府の報告書によると、東京・神奈川県・千葉県などで関東南部を中心の11万棟近くの住宅が全壊した。神奈川県の鎌倉では鶴岡八幡宮の拝殿など歴史ある神社仏閣が倒壊したほか、重さ121トンもある鎌倉大仏が30センチ以上ずれたという4

 地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったため、「かまど」や「しちりん」が多く使われていたこともあり、以後、同時多発的に火が出て次々と延焼が広がっていく。

 内閣府の資料などによると、当時の東京市(現在の千代田区や港区、台東区など)で、130か所余りで火災が発生し、しかしこのうちの70か所以上で消し止められずに火が広がったという。

 焼失面積は34平方キロメートル余りと、東京市の約4割を占めた5年8月28日 [/efn_note]。当日は、日本海から東北へと台風が通過していた影響で、関東地方でも強風が吹いていたため、「火災扇風」と呼ばれる猛烈な延焼が広がった。

 関東や静岡県などの沿岸では大津波も観測。静岡県の熱海では12メートル、千葉県の館山でも9メートルの津波が観測された6

朝鮮人虐殺

関東大震災時には、「混乱に乗じて朝鮮人や共産主義者が井戸に毒を入れたり放火したりした」というデマが流れたことを機に官憲や自警団などが、多数の朝鮮人や中国人、そして日本人までもが無差別に殺害するという事件が起きた。

 正確な犠牲者数は不明であるものの、一説には数千人が殺されたという。

事件は、その当時から、日本人のなかで朝鮮人を危険視する風潮があったために発生したとみられる。

 とくに19世紀末から1920年代にかけて朝鮮人の抗日運動が頻繁に新聞紙上で報道されており、そのことが日本人の「危険な朝鮮人」像の形成を寄与した。

 さらに1920年代に入ると、危険な朝鮮人が内地にまで入り込んでいるとまで報道。そして関東大震災直前の時期には朝鮮人の日本への渡航が急増し、とくに東京地方への朝鮮人の流入が激しくなる。

 このことが朝鮮人に関するデマを浸透させる下地となった。

 一方、1日、朝鮮人犠牲者の追悼碑がある都立横網町公園(墨田区)で、過去に集会での発言がヘイトスピーチ発言であると認定された団体「日本女性の会 そよ風」が、追悼碑前で集会しようとすると、集会に反対する人たちから「帰れ」とのシュプレヒコールがあがるという事件が7

 この「そよ風」は、2017年9月1日から公園内で「真実の慰霊祭」を開いてきた。2019年には、

「犯人は不逞(ふてい)朝鮮人、朝鮮人コリアンだったのです」
「不逞在日朝鮮人たちによって身内を殺され、家を焼かれ(略)」

8

という参加者の発言があり、この発言は翌2020年に東京都の人権尊重条例に基づき、ヘイト認定されている9

 政府も、震災時の朝鮮人虐殺については、「虐殺はあった」との事実認定を避けている状態だ。

福田村事件


「流言」による殺されたのは朝鮮人や中国人だけではなかった。現在の千葉県野田市で、幼児や女性を含む9人の日本人が朝鮮人と間違われたことをきっかけに地元の自警団に殺された「福田村事件」が。

 福田村事件は、関東大震災から5日後の1923年9月6日に発生。当時、震災直後に「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などという流言飛語が飛び交う中、各地で自警団が結成される。

 福田村でも、消防団や在郷軍人などから構成された自警団が結成され、村内の警戒にあたっていた。一方で、香川県から薬の行商に着ていた15人の一行がいた。一行は家族や親族で行動し、福田村を訪れていた。 

 村を流れる利根川から対岸の茨城県へ渡ろうと渡船場に行ったのち、近くの神社の鳥居に6人、そこから30メートルほど離れた水茶屋のベンチで9人が休憩していた。すると自警団がやってきた。「見かけない者だ」と一行を囲む自警団。団員の中には、一行を朝鮮人だと疑う者もいて、これをきっかけに一行を襲い、9人が殺害された。

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 生き残った男性が襲われた時の様子を綴った手記が、香川県の文書館に残っていた。男性が事件後、裁判に備え、資料として利用するために書いたという。

手記の記述

「取井ノソバデ、休ミテ居リタ処エ/青年会、シヨボ、在郷軍人ガキテ/鮮人ジヤトユウ人モアリ/棒ヤトビグチヲモッテ頭エブチコンダ」

(鳥居のそばで、休んでいたところへ/青年会、消防、在郷軍人が来て/「鮮人じゃ」と言う人もあり/棒やとびぐちをもって頭へぶち込んだ)

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 事件の背景には被差別部落問題も隠されている。一行は、香川の被差別部落から遠く離れた関東地方にまで行かなければならなかった。差別の中で自立をめざした部落の人の多くが行商に従事していた。

 行商は香川の部落産業だったからだ。

  1. 西日本新聞「一極集中 公助に限界」西日本新聞、2023年9月2日付朝刊、1項 
  2. 西日本新聞、2023年9月2日 
  3. NHK NEWS WEB「関東大震災とは? 被害の特徴・メカニズム・教訓は?」2023年8月28日、https://www3.nhk.or.jp/news/special/saigai/natural-disaster/natural-disaster_27.html 
  4. NHK NEWS WEB、2023年8月28日 
  5. NHK NEWS WEB、2023
  6. NHK NEWS WEB、2023年8月28日 
  7. 東京新聞「【動画】ヘイト団体と反対派で公園騒然、朝鮮人虐殺の追悼碑前「帰れ」「警察が妨害」 関東大震災100年」2023年9月1日、https://www.tokyo-np.co.jp/article/274209 
  8. 東京新聞、2023年9月1日 
  9. 東京新聞、2023年9月1日 
  10. ちばWEB特集「「福田村事件」を伝え続ける人たち」2023年8月31日、https://www.nhk.or.jp/shutoken/chiba/article/015/51/ 
  11. ちばWEB特集、2023年8月31日 
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