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8月25日夜、自民党総裁選への立候補の表明を翌日に控えた岸田氏は、自身が率いる岸田派の若手を前に、記者会見用の「台本」を読み上げる。
岸田氏は、党役員の任期制を打ち出し、歴代最長の5年にわたりポストに居座る二階幹事長と、二階との協力関係にある菅義偉首相との間のくさびを打ち込む予定だった。
岸田首相には、明確なヴィジョンが見えず、その時々の情勢に流され、政治家としての信念が薄く、日本という国をどの方向へ導くのかが不透明なところだろう。
前回までの記事
菅首相のわずか1年の退陣で考える、「自民党」という組織とは何なのか? ~1~ 菅政権とは何だったのか?
目次
- 新首相・岸田文雄とは何者なのか
- 党役員人事
- 岸田内閣の顔ぶれ
新首相・岸田文雄とは何者なのか
8月25日夜、自民党総裁選への立候補の表明を翌日に控えた岸田氏は、自身が率いる岸田派の若手を前に、記者会見用の「台本」を読み上げる。
このときの目玉ともいえる「公約」は、「総裁を除く党役員は1期1年、連続3期まで」だった。岸田氏は、党役員の任期制を打ち出し、歴代最長の5年にわたりポストに居座る二階幹事長と、二階との協力関係にある菅義偉首相(当時)との間のくさびを打ち込む予定だった。
岸田首相は、将来を嘱望される「プリンス」だった。祖父の正記、父の文武ともに衆院議員を務めた政治家一家に育血、私立開成高校から早稲田大学に進み、日本長期信用銀行に就職後、父の秘書となった。
1992年に父・文武が現職のまま死去したため、後を継ぐ形で93年に衆院選に出馬。同期当選には、安倍晋三元首相、高市早苗、野田聖子議員らがいる。
一方で、親族のほとんどが東京大学を卒業していく中で、自身は3度東大受験に失敗。その境遇は、安倍元首相と共通する。
当選後は父と同じく、広島出身の池田勇人元首相をルーツとするリベラル系の派閥「宏池会」に所属した。
97年には安倍氏の後任で党青年局に就任。安倍氏はタカ派色の強い「清和会」に所属しており、異なる立ち位置で競うライバル関係になる。
衆院独自の伝統である「ぎちょおーっ(議長)」と声を張り上げ、会議の進行を促す議事進行係も務めた。
青年局長と議事進行係の両方を務めた人物は、同じ早稲田出身の竹下登、海部俊樹が両名とも総理大臣にまで上り詰めたことで、「自分も100%の確率で総理になる」ということが岸田氏の自慢であった。
しかし、そう順風満帆には行かなかった。岸田氏にとって大きなターニングポイントになったのが、2000年の「加藤の乱」だ。
当時の宏池会会長であり首相候補の一人であった加藤紘一氏が、野党が提出しようとしていた当時の森善郎内閣の不信任決議に賛成する動きを見せた。
結果的には、党執行部により「加藤の乱」は鎮圧されたが、加藤氏は衆院本会議を欠席、岸田氏も同調した。
加藤の乱を機に宏池会は分裂、岸田氏は加藤とたもとを分かち、加藤の乱後に新たに幹事長となった古賀誠氏らと行動する道を選ぶ。そのときのことを岸田氏は、自著で「勝負は勝たなければ意味がない」とした。
だが、それ以降、自民党内では、森氏、小泉純一郎氏、安倍氏らが所属する「清和会」が、他の派閥を圧倒していくようになった。
2012年10月、岸田氏は古賀氏の後を継ぎ、宏池会の会長の座に就く。あいさつでは、「戦後に歴史の中で、保守本流と言われた考え方を、改めて現代の政治に問いかけたい」と述べる。
記者団から、「派閥の名称はどうするか?」と聞かれ、「古賀派から変えるという意味では、岸田派になってしまうのかな」と応じた。
2012年10月、民主党から改めて政権を奪還した第2次安倍政権では外務大臣のポストに就いた。
「唯一の戦争被爆国の立場、国民の思いをしっかり国際社会の中で訴えていく」と、就任直後の記者会見で発言し、記者からの「核廃絶に取り組むのか?」という質問に、「おっしゃる通りだ」とはっきりと言い切った。
しかし核廃絶を訴えながらも、自身は一貫して「原発推進」を訴え続けた。東日本大震災前の2008年には、『日本原子力学会誌』で、