安倍政権時代の対露外交を検証する

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Michael SiebertによるPixabayからの画像

 また一つ、安倍政権時代の”失政”が露わとなった。 ロシアがウクライナに侵攻していくなかにおいて、安倍晋三元首相の対ロシア外交も検証せねばならない。とくに「プーチンの犬」と形容してもよかった安倍元首相の”手のひら返し”ぶりは、呆れるほかない。

 2月24日、自民党の会合で安倍氏は、

 戦後、私たちがつくってきた国際秩序に対する深刻な挑戦であり、断じて許すわけにはいかない。

とロシアを強く批判したが、安倍氏にそう発言する資格はない。

 そもそも、ロシアがウクライナに対する侵攻を着々と準備を進めるなかにおいても、安倍氏の行動は”異様”であった。2月8日には、安倍氏は岸田首相と会談、ウクライナ情勢や対ロ外交について、”アドバイス”したとされる。

 その中で、安倍氏は北方領土の問題への影響を持ち出し、ロシアを刺激しないようにけん制したのではないかとされる。15日夜には、岸田首相がウクライナのゼレンスキー大統領と電話会談を行うと、安倍氏は17日の自身の会合で、そのことについて触れたうえで、

(岸田首相は)おそらく近いうちにプーチン大統領にも日本の考え方を伝えるだろう。

語った。

 しかしながら、安倍氏とつながりの深い高市早苗・自民党政調会長が、林芳正外相がロシアの経済発展相と日露経済について協議したことに関し、

「ロシア側を利することになる」

「ロシアの術中に見事に自分からはまっていった」

と攻撃していたが、そのことはすぐさま、安倍政権時代の対ロ外交に”ブーメラン”として跳ね返る。


 中国や韓国に対して、勇ましい発言をしてきた安倍氏は、なぜかロシアに対しては寛容であった。その関係は、もちろんプーチン大統領との過去の”親密”ぶりに反映する。

 ここでは、そんな第二次安倍政権時代の対露外交を振り返っていく。

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安倍政権の対露外交

 とにかく、ここ10年の世界情勢のなかで、安倍氏とプーチン氏との親密ぶりは明らかに異様であった。この異様さは、そのまま安倍政権の特徴の一つとして表れ、失政の一つでもある。

 異様さは、安倍第二次政権の発足直後から始まる。2014年、ロシアのソチで冬季オリンピックが開かれた。

 しかし、当時、同性愛宣言禁止法などロシアでは人権問題が国際的な批判に晒され、そのロシアへの抗議の意を込めて、米国や英国、フランス、ドイツなど欧米諸国の首脳らは、軒並み開会式への参加を見送る。

 そのような中、日本の安倍首相は”平然と”開会式に出席した。それだけでなく、北方領土交渉もひどかった。

 16年12月のプーチン大統領の訪日の際には、プーチン氏を安倍氏は地元である山口県に”わざわざ”招待、一気に北方領土交渉の進展を進めようとしたものの、結果はプーチン大統領に2時間40分も待たされた挙句、「共同経済活動」として日本側から約3000億円を投入させることを約束させられた。

18年の日露首脳会談の際にも、安倍氏は、

 (2島引き渡しを明記した1956年の)日ソ共同宣言が基礎

と強調し、

 2島は確実に取り戻す、ということだ

と高らかに宣言していたが、会談翌日、プーチン大統領に2島が、

 宣言で、主権がどちらになるかは記されていない

と、引き渡しを完全否定された。

 さらに、翌年の1月におこなわれた日露外相会談後のラブロフ外相の会見でも、2島返還以前に“主権は我々にある”とされた挙げ句、“北方領土と呼ぶな”とまで断言されてしまった。

 しかも、ロシアはその後、択捉島と国後島に艦艇攻撃用のミサイルまで配備し、択捉島では高性能な地対空ミサイルを実戦配備するなど、”軍事拠点化”を進めてきた。まさに「ロシアの術中に自らはまっていった」のが当時の安倍首相だった。

 さらに、それまで毎年2月7日の「北方領土の日」に政府が公報広告を打ち、「北方領土は日本固有の領土です」と宣言していたのにも関わらず、19年には、そこから「日本固有の領土」のいう文言を削除させることになってしまう。

 それでも、19年の9月の日露会談では、冒頭、プーチン大統領に向かって、

「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている」

「ゴールまで、ウラジーミル、2人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか」

などと平然と言ってしまう始末であった。

西側諸国の経済制裁破りに加担

 安倍政権は、ロシアに対し、西側諸国の経済制裁を破る動きまでしていた。ロシアは2014年にクリミア半島の併合時点で、西側諸国から経済制裁を受け、経済状況が悪化。

そ の中の経済対象となっていたところに、プーチン大統領と近い国営の石油企業「ロスネフチ」があり、経営難となっていた。

 ところが日本政府は西側諸国の経済制裁を破り、「年金積立金」を使ってロスネフチを支援しようとしていたことを、ロイター通信のスクープにより明らかとなった。

 ロイターは、プーチンの側近のひとりでもあったロスネフチの会長であったセチンのメモを入手。そして、18年11月、

 独自スクープ!Russian state bank secretly financed Rosneft sale after foreign buyers balked)

という記事のなかで、「湾岸から日本へ」という見出しをつけて、2016年末ごろの日本側の経緯を以下のように書いていた。

 ロシア政府関係者、ロスネフチに近い関係筋、そしてセチンが証人となった全く別件の裁判で浮上したセチンの会話記録によると、セチンは東に向かい日本の政府関係者と会談を始めた。会談は主に、日本の経済産業相・世耕弘成となされた。
 
 交渉が合意に至った場合、その株式の購入者は、管理対象資産が1.4兆ドル以上をもつGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)、または独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)のいずれかになっていた、とこの件に詳しい3人の関係者がロイターに話した。(中略)
 
 結局、取引は破綻した。
 
 日本の経済産業省は質問に応じなかった。ロスネフチは、ロイターの取材に対し、日本との件に関しては、回答しなかった。JOGMECの広報は「回答できない」と言った。GPIFは、「直接関与していないため政府間の問題についてコメントすることはできない」と述べた。

 このように、日本政府は一時、安倍氏の側近でもあった世耕弘成経産相(当時)が乗り出し、政府系のファンドにこの株を購入させようとしていた。

 しかし、この記事のように交渉は決裂した。ただ、決裂の経緯をロイターは次のように書いている。

 裁判で再生されたセチンの会話記録によると、日本が第二次世界大戦末期から続くロシアとの領土問題の進展とリンクさせようと要求したことで、交渉は暗礁に乗り上げてしまった。

 その取得先の政府系機関であるGPIFというのは、年金積立金管理運用独立行政法人。国民が積み立てた年金を資産運用しているのだが、その金額は130〜160兆円にものぼり、「世界最大の機関投資家」ともいわれる。

 GPIFは、以前は国民の年金を減らしてしまう危険性を考えて、株式などリスクのある投資をほとんどしていなかったが、第二次安倍政権になって株式への投資を全体の半分にまで増やした。

 背景には、世界最大の機関投資家であるGPIFに大量に株を買わせれば、株価が上がり、景気が回復したという印象を与えることができるという思惑があったとされる。

プーチン大統領の20年

 プーチン大統領の20年とは、ロシアという国の国力を大きく回復させ、さらなる国の近代化と国際的な地位の向上をするべく“大国ロシア“の復活を期した20年であったことになる。

 確かに、1990年代のロシアはボロボロの時代であった。 “新生ロシア“の誕生とともに初代大統領となったエリツィン氏は、「ソ連を壊す」という歴史的役割を果たしたものの、ロシアの政治と経済はともに混迷を極め、国際的な地位が低下した。

 エリツィン本人も、健康上の理由で満足に職務をこなせなくなり、99年12月31日をもって辞意を表明、プーチン氏に政権を禅譲した。

 プーチン氏は、大統領代行に就任、選挙を経て、翌2000年5月に正式に大統領に就任した。以降のロシアは再び、復活を遂げる。

 世界的な石油価格上昇に支えられ、経済は高成長に転じ、「世界の成長をリードする新興国」の一つとして位置付けられた。 経済の回復とともに、軍事やエネルギー産業も急成長する。

 08年のリーマンショックと、それに影響される石油価格の下落は痛手だったものの、プーチンの時代は続く。ただ、2010年前後は大きな分かれ目となった。

 ロシアの憲法によれば、大統領の任期は4年で、連続2期までしか務めることができなかった。そこでプーチンは2期8年務めたところで、08年にその座をメドベージェフに譲り、自らは首相の座に譲る。

 そしてメドベージェフ大統領の任期が12年5月に切れるところでのタイミングで、12年3月に大統領選挙に再出馬、見事に返り咲いた。

 しかもこのとき、憲法の改正により大統領の任期は4年から6年に延長されていたため、プーチン体制が2期12年も続く可能性があった。しかし、それが大きな不満を呼ぶ。11年暮れから翌年にかけて、モスクワの中心部で大規模な反体制デモが繰り返し行われた。

 政治面においては、12年9月に開催されるAPEC(アジア太平洋経済協力)の準備に合わせ、開催地となるウラジオストクの大規模な開発が行われた。

 スポーツの面では、14年のソチ冬季五輪、18年のサッカーW杯という2大イベントに向け、国を挙げて準備を行う。

 一方、プーチン氏は12年の大統領選挙に臨むにあたり、選挙公約の目玉として、クリミアの併合や、今回のウクライナ侵攻の布布石ともいえる「ユーラシア経済連合」を創設するという構想を示した。  

 ただ、ロシア経済は、2010年代以降、大きな曲がり角に陥る。石油価格が十分高かったにもかかわらず、13年の成長率は1.8%にとどまった。 政治面においては、クリミア併合以降、西側諸国と鋭く対立した。

一方で、ロシア社会も大きく変化した。2010年にロシアにおけるインターネット使用率は41.3%であったのが、18年には69.0%にまで上昇、日常的な買い物などの非現金決済の比率が10年は2%に過ぎなかったものが、19年には65%にまで上がった。

 さらに生活の質の面においても変化が起きる。1人当たりのアルコール消費量は10年の18リットルから19年以は9リットルへと半減(純アルコール換算)、成人に占める喫煙者の割合も、10年の41%から19年には22%へ減少した。

「暗殺大統領」プーチン

 プーチン政権下において目に見える変化が起きたのが、「言論の自由」をめぐる状況だ。

 言論の自由が一切存在しなかったソ連の崩壊後、ロシアでは自由な言論活動を展開するメディアが次々と誕生したが、プーチン大統領が誕生すると同時に、ロシアのテレビ局は次々と政権寄りの報道をするようになった。

 たとえ”政権寄り”でなくてもそのテレビ局はプーチン政権に近い富豪により買収され、大統領を批判できなくなった。新聞社も”御用新聞”ばかりとなる。

 それでもロシア国内にプーチン大統領を批判し続けてきた新聞社が存在した。「ノーバヤ・ガゼータ」(新しい新聞)という新聞社だ。

 ただ、この新聞社の払った犠牲は大きく、これまで5人もの記者が殺害されてきた。2003年には、副編集長が”謎の死”を遂げる。高熱を出し、モスクワ市内の病院に運ばれたものの、顔の皮膚が剥げ、脱毛が始まり、結局、最期は呼吸困難となり、死亡した。

 当時、原因は不明であったが、放射性タリウムを何らかの方法で体内に入れられたとみられる。しかし、一般人が放射性タリウムなど入手することは困難だ。

 06年には、女性記者のアンナ・ポリトコフスカヤ氏がアパートのエレベーターの中で何者かにより射殺された。

 この事件はロシア国内も多くの衝撃を与えた。ところが、プーチン大統領は、

 彼女の書いた政権批判以上に、暗殺によってロシアは大打撃を受けた

と述べるだけ。

 ポリトコフスカヤ氏以外にも、09年には同紙の顧問弁護士でありチェチェンの人権問題に取り組んでいたスタニスラフ・マルケロフ氏と、彼を取材中だったアナスタシア・バブロワ記者が白昼の路上で射殺された。

 「ノーバヤ・ガゼータ」は、ソ連崩壊後の1993年に創刊した。ソ連最後の大統領となったミハイル・ゴルバチョフも出資して話題となる。週3回の発行で、発行部数は公称27万部という小さな新聞社だ。しかし、広告が激減し、苦しい経営が続く。

 そもそもプーチン大統領は、このような民間の新聞や放送局に広告を出している広告主に圧力をかけ、広告を出すのをやめさせる。そのような帰結が、このウクライナ侵攻の姿でもあるのだ。

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