コロナ渦のオリンピック 開催の是非 スポーツと体育 断絶を生み出すもの ~4~ オリンピズムの精神と今後のオリンピックの課題

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Dias12によるPixabayからの画像 

 

 今年は、メジャーリーグの大谷翔平選手の活躍が話題になったが、オリンピック期間中になるとエンゼルスをはじめ、大リーグの試合はNHKでは一切、放送されることはなかった。

 だが18日間を通じた大会平均視聴率を見ると、自国開催にもかかわらず、NHKは前回のリオデジャネイロ大会の9.0%から7.6%にまで低下し、2008年北京大会の11.5%以来の2桁台とはならなかった。

 ちなみに日本民間放送連盟は、「今回の東京オリンピックのテレビ放送に関わる民法全体の収支は赤字」であることを発表しているが、赤字状態は2012年ロンドン大会のときから続いている。

 この違いは、1964年東京大会が20競技163種目だったのに対し、今大会は過去最多の33競技339種目にまで実施競技が広がる、オリンピック自体の肥大化・細分化によるものだ。

前回までの記事

コロナ渦のオリンピック 開催の是非 スポーツと体育 断絶を生み出すもの ~1~ 議論を呼んだ開会式を振り返る

ロナ渦のオリンピック 開催の是非 スポーツと体育 断絶を生み出すもの ~2~ 医療とスポーツとの断絶が顕著になった東京大会

コロナ渦のオリンピック 開催の是非 スポーツと体育 断絶を生み出すもの ~3~ 日本のスポーツ界に求められる公共性とスポーツマンシップ

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目次

  • オリンピックの起源
  • オリンピックの再興
  • オリンピックが理想とするもの 「オリンピズム」
  • クーベルタンとは?
  • オリンピック・ムーブメント
  • オリンピック・レガシー
  • 今後のオリンピックの課題

オリンピックの起源

 古代オリンピックは、紀元前776年に古代ギリシャのエリス地方にあったオリンピアという地域で始まったとされる。

 オリンピアは、ゼウスの神の聖地で、オリンピア競技はそのゼウス神に捧げる競技祭として始まったと考えられている。

 当時から、4年ごとに開催されていた。当時、ギリシャではポリス間における慢性的な争いが起こっていたが、オリンピア競技の祭典が開催されている期間中は、「エケケイリア(聖なる休戦)」と呼ばれた休戦期間が設けられていた。

 出場者はポリスの自由市民に限られ、優勝者にはオリーブの冠が授けられる。

 当時の古代ギリシャにおける競技精神を象徴するものは、「カロカガティア」である。これは、身体的にも道徳的にも優れていることであり、「美にして善なること」を意味している。しかし古代オリンピックも、時代とともに”プロ化”や”ショー化”していったという。

 その古代オリンピックは、ローマ時代に入り、テオドシウス帝が紀元392年にキリスト教を国教として定めたために、オリンピア信仰は異教と判断され、禁止されることになり、393年を最後に古代オリンピックの歴史は途絶えた。

オリンピックの再興

 現在の近代オリンピックは、フランスのピエール・ド・クーベルタン男爵により、1896年に第一回大会がアテネで開催された。

 クーベルタンは、古代ギリシャやローマ文明に憧れを持ち、古代オリンピックを模した競技祭を構想した。彼の主な動機は、単なる「スポーツの祭典」にとどまらず、精神の発達を願う「芸術祭」を含めてのものであった。

 事実、1912年のストックホルム大会から1948年のロンドン大会までは芸術競技が開催され、1952年の第15回ヘルシンキ大会からは「芸術展示」、1992年の第25回バルセロナ大会からは「文化プログラム」として実施された。

オリンピックが理想とするもの 「オリンピズム」

 オリンピックの根本的な思想を、オリンピズムという。そもそも、近代オリンピックは、19世紀末、フランスのピエール・ド・クーベルタンの提唱により始められた。クーベルタンは、スポーツを通して、個人個人が成長し、その個人がそれぞれ交流することによって、世界平和が成し遂げられると考えた。そのクーンベルタンが思い描いた理想を、オリンピズムという。

 オリンピズムとは、スポーツを通して心身を向上させ、のみならず、さらには文化・国籍などさまざまな差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神を理解しあうことで、より良い平和の実現に貢献すること、である。

 さらに近年では、オリンピズムの精神に「環境」という項目が加わり、世界の人々が地球環境について考える機会の場ともオリンピックはなっている。

クーベルタンとは?

 ピエール・ド・クーベルタンは1863年1月1日、15世紀のイタリア貴族フレディ家に連なる名門貴族の三男として、フランス・パリに生まれた。

 そして、パリから北へ、ノルマンディのミルヴィルという街のクーベルタンの母方の実家であるミルヴィル侯爵家の領地で、クーベルタンは幼少期の大半を過ごす。

 ちょうど、海の向こうのイギリスでは産業革命が起き、スポーツの制度化が進み、そのスポーツというものが伝統的な名門校で次々に取り入れられた。

 一方、クーベルタンの住むフランスでは、1870年に起きた普仏戦争や、翌年にナポレオン3世の第二帝政が倒され、第三共和制に以降する混乱期であった。

 クーベルタンはというと、神学寮に端を発す学校で中等教育を終えると、1880年に陸軍士官学校に入学した。

 当時の貴族は、軍人か法律で身を立てるかのどちらかしか選択肢がなかったが、しかしクーベルタンは軍事的な教育に馴染めずに数ヶ月で退学する。

 そのとき、彼は当時のベストセラー小説であるトマス・ヒューズの「トム・ブラウンの学校生活を読み、衝撃を受けた。そこでは、小説の主人公であるトムがパブリックスクールを舞台に、学業にスポーツに躍動する姿があった。

 1883年、20歳のクーベルタンは初めてイギリスに渡り、イートン校やハロー校などの名門パブリックスクールを訪れた。そこには、小説の「トム・ブラウンの学校生活」の世界が実際にあったのだろう。

 何度かのイギリス訪問を経て、クーベルタンはフランス・スポーツ連盟を結成、1889年からはフランス教育省から近代スポーツ普及の研究を命じられる。

 するとクーベルタンは、同時期にプロスポーツも誕生し、スポーツ先進国となっていたアメリカを訪問。また世界各国に対し、学校でのスポーツ教育に関する質問状を送るなどしていた。

 同じころ、クーベルタンの動きを大きく変える出来事が世界各地で起こっていた。ドイツ帝国による、古代オリンピア遺跡の発掘である。考古学者ハインリッヒ・シューリマンの指導を受けた発掘団の粘り強い作業により、1881年までに主要な遺跡の発掘を終えていた。

 この発掘は、当時の欧州での古代ロマンへの夢を大いに現実化させるものだった。ただ、実際にはクーベルタンの以前の時代にもオリンピック復興の動きはあった。

 1850年代、イギリス中西部のマッチ・ウエンロックという小さな町で、ウエンロック・オリンピックと題した総合スポーツ大会が開かれていた。

 1830年代には、スウェーデンで2度、スカンディナビア・オリンピック大会が開催され、実はギリシャでも1859年からパン・ヘレネス・スポーツ・フェスティバルという大会が開催されていた。

 また、スエズ運河を建設したフランスの外交官であるフェルナンデス・ド・レセップスも、オリンピック復興を訴えた一人である。

 こうした欧州全体の雰囲気の中で、クーベルタンは1892年の11月25日、フランス・スポーツ連盟の創立5周年記念講演になかで、初めて「オリンピックの復興」を説いたのだ。

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