コロナ渦のオリンピック 開催の是非 スポーツと体育 断絶を生み出すもの ~3~ 日本のスポーツ界に求められる公共性とスポーツマンシップ

Sasin TipchaiによるPixabayからの画像 

 体育とは、適切な運動を実施することにより、身体の健全な発達を促し、健康な生活を営む態度や知識を養うことを目的とする教育のことである。

 明治時代、初代文部大臣を務めた森有礼は、「国民教育で重要なことは、知育・徳育・体育」の3つであると言い、体育を義務教育に取り入れた。

 ただし、政府は対内的には「体育」という言葉を使いながらも、対外的には「スポーツ」という言葉を用いてきた歴史があることも見逃せない。

 だが、現代においても、いまだ「スポーツ」と「武道」とを比較し、「武道」こそが素晴らしいとの言説が出回っている。

 日本スポーツ振興センターの記録に残る1983年度から現在において、中学校・高校で121人の生徒が柔道の部活動中に亡くなっているが、しかし、海外では柔道は危険なスポーツとして認識されていない。

 ともかく、日本だけ、柔道による死亡事故が相次ぐのは、日本の柔道界をはじめ「武道」が「スポーツ」化しておらず、非近代的な指導が行われているからだろう。

前回までの記事

コロナ渦のオリンピック 開催の是非 スポーツと体育 断絶を生み出すもの ~1~ 議論を呼んだ開会式を振り返る

コロナ渦のオリンピック 開催の是非 スポーツと体育 断絶を生み出すもの ~2~ 医療とスポーツとの断絶が顕著になった東京大会

目次

  • 公共性とは?
  • スポーツ立国戦略
  • 公共スポーツの現在
  • スポーツと体育との違い
  •  スポーツをする権利 
  • スポーツマンシップなき日本
  • スポーツマンシップとは何か?

公共性とは?

 公共性の意味はとくに日本において、大きく3つに分けられる。それは、「official」(国家に関係する公的なもの)、「Common」(すべての人々に関係する共通のもの」、「Open」(誰に対しても開かれているもの」の3つである。

 Officialなものは、国家が法や政策などにより国民に対して行う行動をいう。「公共投資」、「公的資金」、「公共事業」などが当てはまる。

 Common(共通)なものは、共通の利益や財産、共有すべき規範・共通の関心ごとなどを指す。「公共の福祉」「公共の秩序」「公益」などの意味でこの意味が使われる。

 Open(開かれている)は、誰に対しても開かれているという意味で使われる。それは、誰もが気軽にアクセスできる空間やモノであり、たとえば街中の公園や情報公開などのことをいう。

 一方で、内閣府は2011年、「新しい公共」という概念を打ち出している。新しい公共とは、支え合いと活気のある社会をつくるための当事者たちの協働の場であり、そこでは、「国民、市民団体や地域組織」「企業やその他の事業体」、そして「政府」などが一定のルールとそれぞれの役割をもって当事者として参加し、協働するという。

 そして新しい公共は、コミュニティ部門、公的部門、私的領域とで成り立つ。

スポーツ立国戦略

 前年の2010年には文部科学省が、「スポーツ立国戦略」を打ち出している。その戦略の一つとして、「社会全体でスポーツを支える基盤の整備」が挙げられている。

 そういう意味では、地域のスポーツクラブを、新しい公共を担う拠点として位置づけてもよい。

 だが、日本のスポーツクラブの問題点として、「閉鎖的である」「運営力の脆弱さ」が挙げられる。

 「閉鎖的である」ということは、地域のスポーツクラブの参加者に同年代が多かったり、同じ職場であったりという同じ境遇の参加者により構成されていたり、構成されやすいということだ。

 「運営力の脆弱さ」は、クラブを運営するに当たって専門的な知識を持っていない人が多い、あるいは運営に関するクラブの蓄積がなされていない、また日頃、運営をする人を支える人が少ないという点だ。

一方で、欧州ではまずスポーツクラブが地域ごとに存在し、さらにそのクラブはその地域に伝統的に強く根付き、住民自身のものであるという意識が強い。

 クラブの独立性も高く、クラブがクラブハウスとグラウンドを所有している。そして、クラブを代表するマネージャーを中心とした役員が存在し、それを支える組織がしっかりと構築されてある。そしてその役員は、主に地域住民が務める。それにより、一層のスポーツの公共性が担保される。

公共スポーツの現在

 2004年、日本全国で636あった総合型地域スポーツクラブは、2015年度までには3,328クラブまで増加、しかし新たに新規創設されようというクラブは、年々減少している。

 その背景にはスポーツクラブのさまざまな課題があり、会員数の頭打ちや、財源の確保、指導者の確保の問題などが横たわっている。 そのため、今後の取り組み課題として、学童保育や放課後子ども教室など「子育て支援」事業との連携や、「地元大学や企業との連携」「若年層の会員の獲得」「トップアスリートの参加・活用」など、特色ある活動を行っているクラブもある。 

 また日本におけるスポーツ関係予算は、他の先進国と比べると低い水準にある。2015年では237億円、GDPに占める割合は0.004%である。この数字は、フランス(262億円、GDPに占める割合は0.099%)、カナダ(244億円、0.018)、オーストラリア(32億円、0.003%)、韓国(110億円、0.012%)である。

 この数字は、日本を1.00とした場合、フランス(3.18)、カナダ(4.26)、オーストラリア(0.67)、韓国(3.03)と、オーストラリアを除き、日本の3〜4倍の予算をスポーツ関連予算に充てている。

 その点からも、日本における「スポーツの公共性」の意識の低さがあらわれている。 スポーツ関連予算の少なさは、スポーツ施設のあり方の問題に通じる。たとえば、既存のスポーツ施設の老朽化が進み、あるいは地域の人口減少と財政悪化が進む中で、施設の改修や耐震化が進んでいない現状がある。

 障害者スポーツも普及する中で、いまだ車椅子の使用により施設の床に傷がつくなどを理由として、利用を断られるケースもあるなど、障害者スポーツへの理解も不十分だ。

スポーツと体育との違い

  スポーツと体育の意味は、決定的な違いがある。スポーツは、楽しみで行ったり、勝敗を競ったりする、身体運動の総称のことであり、競技運動の他、レクリエーションなども含まれる。 

  それは、身体を動かして健康を維持するだけではなく、「遊び」「楽しみ」「ダイエット」「ストレスの発散」などのあらゆる目的を含む。 

  一方、体育とは、適切な運動を実施することにより、身体の健全な発達を促し、健康な生活を営む態度や知識を養うことを目的とする教育のことである。

  つまり、体育とは教育の一環として行なわれるものであり、その基準は、「運動能力」ではなく、「指示に従えるか」「積極性があるか」「協調性があるか」「趣旨を理解しているか」といった、姿勢や意欲が重要とされる。 

  明治時代、初代文部大臣を務めた森有礼は、「国民教育で重要なことは、知育・徳育・体育」の3つであると言い、体育を義務教育に取り入れた。 彼は元外交官であり、スポーツの母国であるイギリスの駐在員であったので、スポーツと体育の違いは十分に理解していた。

 そのうえで、あえてスポーツではなく、「体育」を日本に導入したのである。その理由には、時代背景が関係している。 当時、普仏戦争でプロシアがフランスに勝ち、ドイツ帝国が成立した。勝利したプロシアでは、すでに体育が学校の必修科目で、軍事教練をかねてあり、森は明治の日本にとって、兵士の養成こそが急務であった。

 そこで、日本と同じ時代に帝国を樹立し、急激に勢力を伸ばしていたドイツを模範とし、体育を日本に導入したのだ。 確かに、体育は兵士の教練・鍛錬に大きな効果を発揮する。兵士は上司である士官の命令を忠実に実行しなければならず、個人の自分勝手な判断は許されない。

  他方、スポーツは軍隊における将校を育成するための「パブリック・スクール」にて完成し、発展していったとされる。将校は、戦場で、個人として考え、判断する能力が必要だ。

 そのため、とくにスポーツには「自主性」が求められる。 こんな逸話もある。明治初期に、さまざまな外国語が日本に伝播し、それらが日本語として日本に輸入された。政府、内閣、国会、民主主義、社会主義、経済、哲学、文学、物理学、保健、福祉、鉄道、駅、自由、平等、博愛、恋愛などさまざまな言葉が、既存の日本語の上書きとして流用されたり、造語として造られたり、訳語として定着したりした。

 だが、スポーツ(sports)という言葉は適当な訳語が見つからなかった。 ある文献によれば、スポーツの訳語として最初に登場したのは、「釣り」だった。続いて、「乗馬」がスポーツとして翻訳された。

 しかし、当時の日本人は、「釣り」も「乗馬」も同じスポーツならば、一体、「スポーツ」とは何なのか、大いに困惑した。 その時、東京大学に赴任してきたイギリス人教授のフレデリック・ウィリアム・ストレンジという人物が、「Outdoor Games」という本を出版し、その中で、陸上競技、水泳、ホッケー、フットボール、クリケット、野球、テニスなどを、「スポーツ」として日本に紹介した。