Avelino Calvar MartinezによるPixabayからの画像
「鬼滅の刀」の日本歴代興行収入1位で浮かればかりではいられないのが、日本の映画製作の実情だ。たとえば、最近はクリエイターの映画業界からゲーム市場への流失が多いという。
最近のゲームは、映画さながらの高品質なシナリオやグラフィックによる凝った作品が珍しくない。実際に、もはや映画市場よりもゲーム市場の方が大きい。
前回までの記事
映画版「鬼滅の刃」歴代興行収入1位の影で危惧される日本映画界の未来 〜1〜 「東宝一強体制」の映画界に未来はあるか!?
映画版「鬼滅の刃」歴代興行収入1位の影で危惧される日本映画界の未来 〜2〜 東宝一強体制のかげで失われる映画の多様性
映画版「鬼滅の刃」歴代興行収入1位の影で危惧される日本映画界の未来 〜3〜 変化する日本の映画の観客層と日本映画界のジェンダー不平等
目次
- 日本映画界の黄金期は1958年
- 映画からテレビの時代へ
- スクリーンは増え、映画館は減少した
- 懸念される「映画館格差」
日本映画界の黄金期は1958年
日本の映画館観客数が最も多かった年は1958年(昭和33)年で、その数は11億2745万人。同じ年の日本の総人口は9176万人だったので、国民一人当たり年間12回、月に一度は映画館に足を運んでいた計算になる。
1950年代は、日本に限らず、世界的にみても、映画の“黄金時代”といわれていた。日本においても、戦後からの復興が順調に進み、外国映画の輸入規制が撤廃され、松竹・東宝・大映・新東宝・東映の大手5社による映画の製作体制が確立した時期だった。
それとともに、映画館の数も急増する。終戦直後、全国に1220館あった映画館は、1958年には7000館を超えるまでにいたる。
映画からテレビの時代へ
しかし、観客動員数の数も1958年がピークであった。映画館の数も一時は1800館以下まで落ち込んだ。
ちょうどその年にテレビ放送が開始され、皇太子ご成婚(1959年)、東京オリンピック(1964年)などを機に、各家庭にテレビが急速に普及した。それに逆行するかのように、映画館の数も減少に転じる。